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セザンヌ主義

「セザンヌ主義」展1

  横浜美術館でのセザンヌ・・・を見ました。セザンヌとその影響下のブラック・ピカソ・モジリアニなどの西欧の画家、安井曾太郎ほかの日本の画家。あまりの 教科書的な展覧会をどう受け止めるか困った人が多いのではないでしょうか。知っている人は困った、知らない人は何の事だかわからないではなかったか・・と 勝手に想像してしまいます。

 日本ではセザンヌ風であることが「アカデミズム」であるという不思議な現象が長く続いたからです。印象派で あり構成主義であり、抽象へも古典へもつながる要素を持ったセザンヌは西洋絵画理解への入門過程だったわけですし・・・なおかつ難しい入門であったわけで す。そのことは安井曾太郎が苦悶し苦闘した後を見せているように呪縛とすら言える状態をつくり出していました。

 自然を「球、円錐、円柱」に還元して見よ・・だったですか?今となっては陳腐な現代絵画の父の理解の仕方です。セザンヌを批判しているわけではなくこうした把握のしかたではセザンヌを現在に生かす道はあり得ないでしょう。そうした疑問を持ちながら横浜へ行ってきました。

 感想は「セザンヌ」は印象派の画家だったという自明なことの確認です。我々はキュビズムの目でセザンヌを見過ぎます。自然の色彩の美しさを再現しようと必死で繊細なセザンヌがそこにいます。

 寒暖対比=オーカーと青、ジョンブリアンと青またはグレイ

そうした対比を中心に画面を構成する。印象派の中の構成重視の画家だったろうと思いますし、「水浴」もそうした意図の中で生まれている・・・・キュビズムのように自然を解体し再構成するという事に主眼をおいてはいないでしょう。

 今回の横浜の展覧会で目立つのは、未完成作品の多さとその質の高さです。これまでセザンヌの水彩の様式と見られていた空白の多い表現が、油にも同じ発想で存在し、しかもセザンヌはおる意味確信的に未完成で放置したという事実を感じさせました。

  この造形への論点を解明できるほどの力は私にはありませんが、たぶん雪舟などと変わらぬ余白と物の関係があるのでしょう。もう一つ、これまでセザンヌの空 間構成は箱型?空間だと言われてみたり、二次元性を失わないように三次元性とバランスをとっている・・と言われてきました。(こういう言説はおもしろい が、本人がそう思っていたかどうか・・たぶん違う)すなおに「自然に従ってプッサンをやり直す」という本人の言葉が一番作品近い理解の仕方だろうと思いま す。印象派の画家としてのセザンヌ・・これが一番素直な受け取り方ではないかというのが今回の展覧会の感想でした。  
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セザンヌ主義2

セザンヌ主義展・・は「西欧」と「日本」のセザンヌに影響を受けた画家の展示がなされていましたが、ヨーロッパの画家がセザンヌの造形的側面を学んで、前衛的作風を形成して行ったのに比較して、日本の画家のアプローチはセザンヌを規範として受け取っています。存在・造形の統合された画家として・・です。そういう意味で長くセザンヌは日本のアカデミズムの基盤をなしていたと思います。

 リアリズムという面で、油絵の出発時点で 高橋由一や原田直次郎の仕事はあったのですが、ヨーロッパ絵画の存在への飽くなき追求は日本の画家にとっていつまでも及ばない規範だったのだろうと思います。光太郎も油絵のねちっこさを克服出来ないでいましたし、智恵子が挫折したのもそうした面が大きかったと思います。

* 原田直次郎と聞いてすぐ「靴屋の親父」を思い出しました。論が違ってしまいますが、原田の「龍に乗る悲母観音」を近代美術館で見て、浅井忠の日本の歴史画とともに明治の画家の苦しみをあらためて知りました。
* ヨーロッパのリアリズムの積み重ねがない日本では、真迫の表現にどう対応するか大きな課題だったのでしょう。
* 日本の画家で靉光 あいみつ)1907~ 1946が油絵らしい油を描いた・・と言われます。
  2008.12.16
 岸田劉生にしても前田寛二にしても須田国太郎にしても、ヨーロッパの画家と違ってリアリズムの問題としてセザンヌをつかまえています。そのようなリアリズム派の画家は早めに印象派的な「色彩対照」の色遣いを捨てて油の体質(マチェール)を意識した表現方法に切り替えて、成功しているように思います。

 > 色彩(=補色対比に見られる目のメカニズム)と形態 < の矛盾は印象派の画家を常に悩ませ、セザンヌをして「モネはすばらしい、しかしそれは目だけだ・・?」と言わせた矛盾でした。スーラの新印象派はそれを突き詰めたら対象のリアリティがすっかり無くなるという結果になってしまい、画風を変えてそれにかけたピサロを悩ませました。
   

 彫刻におけるロダン、絵画におけるセザンヌ、日本では尊重されるという意味では同じ位置にいましたが・・実質はかなり違ったものだったように思います。ロダンはロマン主義的な写実主義を基盤に抽象性のあるバルザック像に至ったのですが、セザンヌは画業の最初から、かなりの矛盾をはらんだ作風でその特異性が新しい世界を暗示したと言えるだろうと思います。

セザンヌとは

セザンヌ・・
セザンヌを教科書的説明をしますと対象(モチーフ)を円柱・球・立方体(←違っていました。円柱・円錐・球・・でした。全て円に関する基本形です。私の誤解もそれらしいのでそのままにしておきます)に還元して描くのがセザンヌの方法です。寒色系=グレーから青と暖色系=肌色からオレンジ、紫、それらが斑点模様のグラデーションをつなげる形で立体や空間を描き出しているのがわかると思います。あちらこちらに白い部分がみえますが塗り残しです。(日本でもゼザンヌの影響を受けた画家は多いですがここまでの塗り残しは見ません)そもそも完成作品だったかどうか?です。
 じゃあ~ と言って塗り残し部分を塗りつぶしたら良くなるか・・画家はその自信がなかったから白のままにしたのです。

「なんかロボットみたいじゃない?」セザンヌを見ている人の顔にそう書いてあります。なんか「お芸術のピアノ発表会」につきあいで来たような・・・・批判して自分の無教養がさらされるのはいや・・そうしたとまどいの色が見えます。どの美術館でもコッホ・ゴーギャン・セザンヌが並んでいますと一番人気はゴッホです。「わーゴッホ!」老いも若きも、紳士もおじちゃんも・・・このゼザンヌはすごい!と思って何十分も立ちつくしている私の脇を、それほど傑作とも思えないゴッホに感激しながら通りすぎる人が圧倒的に多い。

 セザンヌの絵は「デジタルな絵画」と考えたらどうでしょうか。音楽で言えば胡弓のような弦楽器のアナログさに対して、鍵盤楽器のピアノのように音の段階がきちっと決まっている楽器・・・そうした「色」の階調の配列を音楽のように並べることによってすばらしい絵画が生まれる・・・


2008.07.13
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