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ベニスに死す

abjorn_andresen.jpg

 
写真をはじめて入れて見ました。この写真が誰なのか知ってる人は(高校生には)少ないでしょう。最初左(または上)の写真だけのつもりだったのですが、趣味を疑われるとまずいので右(下)の写真を追加しました。(ブログでは写真が下に来てしまいます)この二枚の写真が同一人物と言ったら・・・驚く人が多いと思います。そういう私も驚いているからです。

■監督:ルキノ・ビスコンティ     www.youtube.com/watch
■原作:トーマス・マン         www.youtube.com/watch
■出演:ダーク・ボガード/ビョルン・アンドレセン/シルバーナ・マンガーノ

マーラーの交響曲第5番第4楽章、甘美なアダージェットに乗せて、静かにやってくる船。
すべてのカットがまるで絵のように美しい。
計算しつくされたような構図と、空や海の色、そして衣装が素晴らしい。

きらきら光る海辺に浮かび上がるタージオの姿が実に美しい。その美しさとは対象的に、アッシェンバッハの若さと美しさに憧れて施したはずの化粧が、醜く崩れていくさまが強烈に印象に残りました。

 なぜこんな写真を載せたのか・・・実は下のような文を書いていたのです。



ギリシャと仏教

 まともにギリシャ哲学関連の本を読んでない素人が、こうしたエッセー風な文を書くのは「大きな過ち」なのでしょうが・・・・自分の中では昨年から大きな問題になっています。

 たとえば仏教で言う「寂滅=火が消えた状態」を理想とする考え方は「逃げ」じゃないかと最近思うのです(大学のころもそう思っていましたが)一種の「変態」じゃないか・・と。仏教の考え方というのは「陰画」ネガフィルムで世界を見るようなものではないか、確かに全世界は写っているけど「反転している」そんな事を思うのです。頭のトレーニングとしてこの「陰画」的世界観を身につけたら・・確かにこの世界にたいする執着はなくなるかもしれません。

人生の幸福を「定量的」に測ることはできない、また「定量的幸福」が主観的幸福感とは一致しないのだという事は経験と仏教から学びました。「人生は苦しみ、愛も苦しみ」こういう「陰画」からも人生観を組み立てることはできます。

 全ての仏教がそうであるわけではないでしょう。こうした禁欲主義は釈迦の説いたものとは違うのかもしれません。・・私が尊敬する親鸞さんは「禁欲をやめた」人です。人間の自然性を肯定した人です・・・・でもこの親鸞さんの流れから「芸術が生まれた」という話を知りません。逆に京都法華宗からは琳派をはじめとする絢爛たる文化が生まれています。この世に浄土を・・だったからかも知れません。・・でも日蓮の浄土は「寂光浄土」なのです。 こうした「ねじれ」が、仏教を陰気なものとしている・・と書いたら世の仏教者は何と言うでしょうか。

          ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
美術の神は「エロース」か「ムーサ=ミューズ」か「アフロデイテ=ヴィナス」・・・と考えてネットを検索していたら次の文を見つけました。

ビョルン・アンドレセンは、34年間、あのタージオを演じた少年というレッテルで見られてきた。15歳で美の化身であった者に、その後の人生は許されるのか。彼はこの映画に出演したこと自体は後悔していないと言う。

しかしこの映画のあとで彼の身に待ち受けていたことを前もって知っていたならば、絶対にこの役を拒否していただろう、と言っている。

彼は映画界から逃げ、人前に出ない音楽家となっていく。1日に10時間ピアノに向かっているという。
30年もの間、世間の目を避け、ピアノに没頭することで安らぎを得ていたのだそうだ。
「その他のことでは幸せになれることはなかったのか?」と聞くと、
「時々はありますよ。でもそれは私が故意に望んだことではない。
私が生きることを続けるためにどれだけの努力を費やしているか、あなたたちは想像できないでしょう。」



 仏教の「愛は苦である」を否定しようと・・ネット検索をしたら、「諸行無常」「因果は巡る」みたいな例にぶつかって、私の書きたい方向を否定することになってしまいました。

 それにしても すごい写真 すごい人生です・・・・芸術は怪しい・・・トーマスマンの言うとおりに

 ** 私は、このブログでマンについてこれまでも書いていましtが 「ヴェニスに死す」は書けない と思っていました。この作品は「トニオクレーゲル」によく似た作品で、若い頃はなぜ同じような小説を二度書くのか・・・不思議でした。
 小説はまだ読み(再読)切っていませんが「文章が上手」だという事に大変驚きました。何てことのないストーリーなんですが、ベニスの空気感まで書く・・・こんな独白みたいな内容で読ませてしまうのはすごいことだ・・小説家の技量に驚いています。   ・・・ そして、若い頃「退廃的」と思っていた小説が、わかるような気がします。ヴィスコンティの映画と小説は違っていて、小説では「自分と同じ小説家」という設定ですし・・映画とは違っています。 高校生には少々荷が重いですね。











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トーマスマン覚え書き3

マンは「芸術」に対して「詐欺的なもの、怪しげなもの」を感じていました。そして自分は道に迷った「俗物だ」と認識していました。

 私は・・資料に当たらず記憶だけで「怪しげなもの」を復元しようと思うのですが、なかなか思い浮かびません。自分に引きつけて言えば ゴッホの狂気 ムンクの狂気 スーチンは? ノルデは? ・・・そういった一連の「狂気」を(で・・によって)表現したグループがあります。エゴンシーレやクリムトなど「官能・・背徳?」を表現した画家がいます。

 頭が痛くなりました。アル中や狂気、生活破綻者・・そういう作家による作品が十分作品として通用するわけです。・・・「純粋すぎて傷つきやすい魂の持ち主」このようにフォローするのでしょうが・・・現実にお付き合いするのはゴメンですね。 書いていて、「こうした事を考えた事がなかったし・・・また、日本での例も知らない」という自分を知りました。 
ネットは便利です。中村正明さんの文にありました。・・・ 日本の画家についての精神的な問題はあまり取り上げられてはいない。・・・ 精神に問題があった有名人:双極性障  カート・コバーン、 ウィンストン・チャーチル、エブラハム・リンカーン、チャイコフスキー、シューマン、宮沢賢治、三島由紀夫、 夏目漱石、北杜夫、中島らも、 統合失調症 ヴァン ゴッホ、ムンク、草間彌生 神経症 泉鏡花。
双極性障害=(躁病と鬱病)
 
 一時期、今も? 生徒達に「ゴッホが好き」という人が多かったです。それに反して「ピカソは嫌い」・・・精神的に健全なピカソ(色彩や形に異様さはない)と根っからおかしいゴッホでゴッホが好まれる・・絵画鑑賞とは何かという事を考えさせられます。 私も「宮澤賢治」という人に精神的何か・・が有るのだろうと最近考えはじめています。それは宗教問題で・・宮澤賢治の世界観は「親鸞=真宗」の中にほとんどが収まっています。わざわざ「日蓮主義」に移行する必然が見えません・・・ですから・・・教義の問題ではなくアミニズム的体感=自然が人間の様に思える・・・こうした精神世界が賢治にはあったとしか考えられません。(親鸞の阿弥陀仏は人格神に近く・・法華経のような自然神的要素が少ないためではないかと思っています **以上の感想は私個人のもので、誰かが書いているという事はありません)
 

トーマスマン覚え書き2

トーマスマンの「世俗」と「芸術」の矛盾という考え方に改めて向かい合っています。

「リューベック」というドイツの都市の、マンの時代の市民生活・・・は無視します。マンですら古き良き時代・・といった「俗物根性」丸出しの生活だったのでしょうが・・・我々はそうしたものを実感として感じられないからです。・・・もしかしたら今の中高一貫校の生活みたいなものかも知れません。舞踏会、フランス語、乗馬・・・などですから。

 今の日本の現実から言うと、中流の市民生活とは「成績あげて良い大学に」「オープンキャンパスに行こうと思う」「お家の中はキレイにかたづいて、ロシアンブルーの猫が」・・・うちが庶民なので想像出来ないですが・・・
 

 マンは「芸術は危険だ」という認識を一貫して持っていたようです。マックスウエーバーではありませんが「プロテスタント的勤勉さ」が「芸術という享楽」で家が傾いて行く・・・日本でいう「道楽者が身上をつぶす」という事になるを自覚していた芸術家だったという事です。山形の「紅染め農家」の事を書きましたが・・一番感じたのは、交易や計算、そして人の使い方・・・こうした家風・家の教育が成立してないと、こうした企業は成立しないだろうという事を思いました。今のようなべたべたな父親では出来ない、集団を率いるリーダー性が要求されたんだと思います。

  なかなか・・思っている所まで文が進みません。(以下、メモします)

  ① 芸術の魔術性 いかがわしさ 神聖さ (なぜならそこは自由だから)
  ② 表現への苦闘 
  ③ ディレッタント(素人・素人芸)の芸術賛美は・・・

 *今、私が一番書きたいのは ①でしょう・・・か?



トマスマン覚え書き

「トーマス・マンとドイツの時代」という本を古本屋で見つけました。今までで一番マンを理解させてくれた本でした。小塩節さんは、かなり有名な人らしいのですが、私は全く知りませんでした。簡潔で要を得ている文で・・言葉の裏にあるドイツ文化という広がりを暗示させる文章でした。
 私自身は「トニオ・クレーゲル」をもってマンの代表作と見なし、短編は読んだが、長編はことごとく挫折という・・だらしなさです。

 「トニオ・クレーゲル」(トーニオ・クレーガー)は題材そのものは、片思いの初恋物語で、男の子の友達への独占欲と華やかな女子に対する、「オタク的な自分」の届かぬ思いを描いたものに過ぎません。・・・わざと今風のライトノベル風に紹介して見たのですが、この小説を難しいと思う人が多いようです。私の場合、マンの場合と逆に、最初に女の子への片思いの初恋を経験し、その後同じ道に進む男子へのライバル意識と独占欲という経験をしました。「芸術」というもの様々な面・・・ほとんど自分の問題としてこの小説を読んで来ています。

 自分にとっては、切実なのに・・・人に勧められない・・・声高に良い小説だから読むべきだとは言えない・・・人にこんな小説だと説明出来ない。そうした小説です。

 このブログを書くにあたって、ネットで感想を探して見ました。良く勉強して、かなりこの小説が気に入っている様子のサイトがありました。しかし、私から見ると「つかむべき所をはずしているな」という印象です。
 ・・・こうした理解をはずしてしまう気持ちは私にもわかります。「違和感」があるのです。小説は「俺も同じだ」と共感しているのに、「芸術家と俗人」というフレームで語られるので困ってしまう。「こんなに共感してる、私は入れてくれないの?」そうした芸術という特殊世界を描いているように見えるからです。

 ただ今は「オタク」という便利な言葉「二次元愛」なる言葉・・が日本アキバ発で発信されていますから・・・この「トニオ・・」をオタク小説の走りとして読むことも出来るでしょうし、昔の「高等オタク・・としての文学」と今の「オタク文学」を比較するなんてアプローチもありうるでしょう。 

 まだオタクという言葉もないうちに私はこの小説の伝道は「自らの秘密をばらすことになる」そうした直感がありました。・・昔の言葉で言えば「文弱」という事になります。
(女、こどもの読む小説なんかに関心を持つなんて・・男は体を鍛え、数字に強く、お国のために兵隊さんになりなさい。立身出世を目指せ・・です)

 小塩さんの本で、マンは「プロイセン流の教育に苦しんだ」とありました。なるほど・・です。プロイセンと明治日本がつながり・・・建前はともかく、質実剛健・・体力と指導力・・つまり男らしさがすべて・・という日本の教育につながってくるのです。今ではオタクは市民権を得たように見えますが、いつ揺り戻しがくるかわかったものではありません。

 最近(2010年7月26日)亡くなった、京都大学の著名な数学者「森毅」さんが数学者もオタクなんだ・・とオタクの適応範囲を広げ・・オタクでなければ創造的仕事は出来ない・・と今では逆転した常識も生まれていますが・・・。

 日本では商業資本とその階層の形成が遅れ・・芸術家が対立し表現したのは「農村的家制度」や「不在地主」で、明治・大正文学はそうしたものでしょう。
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