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雑文

この間、私は仏教について書いています。本当に一貫性がなくて自分でもあきれますが、今日は仏教否定論を書いてみたい“気分”です。最終的には仏教は不要なのだろと思います。現実に直面する勇気があるなら「仏教」はじゃまなんだろうという事を感じるからです。人間はそのままで神秘的な存在なのだろうと思うからです。

 私たち日本人がキリスト教の「原罪」という考えを受け入れられないように、本当は仏教の「出家」という考え方も受け入れる事が出来ないのではないでしょうか。キリスト教も仏教も・・なぜか性を敵視し・・・人類絶滅化計画みたいな教義を持つに至ったのか・・・不思議に思います。 釈迦仏教が「出家主義」だった事は否定出来る事ではないでしょう。「働かず、子どもを作らず、乞食をしながら生きてゆく」という今で言ったらカルト的宗教集団が、なぜ存在しえたのか普通に考えたら理解しがたい事です。(この事に正面から答えた論を聞いたことがありません。日本仏教はなし崩しに出家主義を無くしてきたからでしょう。)

 苦行をし、自らを捨てて、真理に至った沙門は、何らかの霊力がある・・・そうしたシャーマン的信仰の土台の上に仏教は載って存立しえたのでしょう。教団が繁栄し、お布施が集まるためにはそうした物語が必要だったのだと思います。教団は常にこうした二重構造に乗っかって存在している。

 世俗の欲望を否定し、聖なるものを求める気持ちとは・・単なる心理学的に言えば「すっぱい葡萄」的な考え方ではないでしょうか。・・・変ですね。今日の私は・・・(まるでだだっ子みたいだ) まずはプラトン否定です。ロダンは露骨な事を言っていますね。男女の間で肝要な事は抱き合う事だ・・とね。下品ですね・・ポール・クローデルがロダンを憎むところでしょう。妹=カミュ・クローデルを発狂させた原因を作った男として。でも、プラトン的愛・・・現れとして・・つまり愛の現象形態・・集約点として「美」がクローズアップされ・・全てが美に集約していくような恋愛意識・・とは結局スタンダールの言う「虚栄恋愛」の一種、18世紀ヨーロッパ的な美意識にすぎないのではないかという事です。


 少し前のブログで、現在の高校生の「サロン化傾向」を指摘しました。1年生はそうしたロマンを単純に信じられているように見えます。ただ2年生は・・ロマンが解体して、リアリズムの方向へ転換して行く混在の時期のように思えます。この用語の使い方も難しいですから、簡単に言いますと、ロマンとは女の子にとって白馬の王子様がどこからか現れて、そうなれば幸福・・・という事を素朴に信じられる時代と言ったらいいでしょう。それに対して、「リアル」とは、白馬の王子様にも様々あって、単にチャライだけとか・・また自分自身も王女様になれるとは限らない・・そういう事に気づく時期でしょう。本当にナイーブに美しい王子様と王女様が出会えば恋が生まれる・・と考えている一群の生徒達がいるように思います。ディズニーアニメの世界と言ったらいいでしょう。しかし、砂糖菓子のように見えた世界が案外やっかいであることに気づくのにそう時間がかからない・・というのが高校生なのでしょう。

 う~ん・・・わずかな観察から、高校生の生態を再現してみましたが、当たっているでしょうか?

* 本当はロマン主義が壊れた所から、人生は始まると言ったらいいのでしょう。でも壊れただけでは何も始まらない。魔女宅のキキは、そういう再構成の世界に飛び込んでいったのですし、高畑作品の「おもいでぽろぽろ」は、ロマンチックが壊れて行く中で、ロマンから脱出しようとする物語だったと思います。


 予定外の妙な文になって、書いた自分が驚いています。厭世主義批判+ロマン主義批判をやってしまいました。
 ロマン主義と厭世主義とリアリズムは、自分の中に併存しているように思います。・・この文を、ちょっといいと思っているのですが・・ロマン主義を突き抜けたところに現れる「リアル」というものを若干でも匂わせることが出来たかなと思うからです。** 芸術における「リアル」という事は、単なる現実模写ではなくて・・日常的観念の破れ目から見えた・・リアル・・そんなものだと思います。(現実・・というのも観念の場合が多いですから)

 ** 全然出来ていません。・・リアル・・という事を、ありきたりな現実の再現と言う意味ではなく、見えて来る過程、世界が開いていく過程としてとらえるのが芸術的には正しいと思います。見る・・という事も決して静止しているものではなく動的過程であり、見えていく過程でしょう。ロマンがないところにはリアルもない・・そんな事が書きたいのですが、なかなか表現が難しいですね。

 リアルと言えば、高校生の中で「リア充」という言葉が一般化しています。ネットから引用すると「ゲーム」 や 「ネット」 などの 「仮想」 の世界の中ではなく、「3次元」 の現実世界、日々のリアルな生活が充実し幸せであることを指します。 対義語 (反対語) は一般に 「非リア充」(非リア) や 「リア終」 で、「オタ充」、あるいはネットの生活が充実している、すなわち 「ネト充」、さらには 「自宅警備員」 や 「ぼっち」、「孤独」「予定なし」「着信なし」 などが対する派生用語となっています。なお 「リア充」 グループの最下層にいるような人は、「似非リア充」 と呼びます。 さらに 「リア充」 グループにいる時だけ強がったり調子に乗る小心者、「リア充の一員であること」 に必死な人は 「キョロ充」 なんて呼ばれます。 学校の教室などで自分の知り合いやツレがいないか、あたりを常にキョロキョロ見渡していることから、こう呼ばれます。 周りから煙たがられているのにそれに気付かず、自分ではリア充のつもりである人は 「自称リア充」、リア充のふりをすることは、「リア充演出」 と呼びます。

 痛いですね。・・我々爺さん世代の青春とは違う世界があります。自虐でないと言えない言葉だし、人に向かって言うのは最悪のようです。私が「リアル」という事で言いたかったことは、こうした事とは正反対の事、心理ゲームではなくて、もっと率直な事・・好きだったら逢いに行ってしまうこと。心理作戦なんかしてる前に出会ってしまうこと。そんな昔を思い出したのでした。男女はいつも一緒にいましたが・・心理ゲームより、存在そのものが大事でした。
 たぶん必要以上に結果を気にしている。人の目を気にしている。別の言い方をすればシミュレーション力が肥大して、現実とゲームどちらも仮想空間化しているように思います。

 *これまでの論調とかなり違った事を書きました。・・時代というのは同じような思考を生み出すものらしく、最近読んだ「仏教関連の本」で私と同じような事を書いているのに驚きました。スマナサーラさんを取り上げ、「苦」は今では中心的ではあり得ない・・などです。いやになってしまうのは、仏教の真理性の根拠として量子力学を援用する事です。弁証法的現実が量子の世界に見つかるというのはその通りでしょうが、そうした自然科学的真理を階層の異なる社会や人間にあてはめるのは、思想はどうあれ問題だと私は思っています。



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