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緑色の太陽

高村光太郎(緑色の太陽)
緑色の太陽 (抜粋)  高村光太郎
 人は案外下らぬところで行き悩むものである。
 いわゆる日本画家は日本画という名にあてられて行き悩んでいる。いわゆる西洋画家は油絵具を背負いこんで行き悩んでいる。・・・・(略)・・・・
 僕は芸術界の絶対の自由(フライハイト)を求めている。従って、芸術家のRSOENLICHKEIT(人格)に無限の権威を認めようとするのである。あらゆる意味において、芸術家を唯一箇の人間として考えたいのである。その PERSOENLICHKEIT を出発点としてその作品をHAETZEN(評価)したいのである。 
 人が「緑色の太陽」を画いても僕はこれを非なりと言わないつもりである。僕にもそう見える事があるかも知れないからである。「緑色の太陽」があるばかりでその絵画の全価値を見ないで過す事はできない。絵画としての優劣は太陽の緑色と紅蓮との差別に関係はないのである。この場合にも、前に言った通り、緑色の太陽としてその作の情調を味いたい
 日本の自然を薄墨色の情調と見るのが、今日の人の定型であるらしい。春草氏の「落葉」がその一面を代表している。黒田清輝氏の如きも、自らは、力めて日本化(?)しようと努力して居らるるらしい。そして、世人はその日本化の未だ醇ならざるをうらんで居る形である。地方色を最も重んずる人に柏亭君が居る。同君のこの趣味は、地方色を重んぜよという理論の側よりも、むしろ氏の性情(テムペラメント)の中に根ざして居る純日本趣味並びに古典的趣味の側から多く要求されているのである。日本人の手になったものは結局日本的である。日本的になるのである。日本的にしようとせずともなるのである。しかたのない腐れ縁なのである。
 GAUGUIN(ゴーガン)は TAHITI(タヒチ)へまで行って非フランス的な色彩を残したが・・・略・・・ 
MONET (モネ)はフランスの地方色を出そうと力めたのではない。自然を写そうとしたのである。勿論、世間からフランスの色彩とは認められなかったのである。フランスの色彩と認められないどころか、自然の色彩とも認められなかったのである。空色の樹の葉を画いたといっては罵られていたのである。しかるに、今日見れば矢張り外の国の人には画けないフランスの香いがする。これ等はすべて、魚に水の香のするようなものである。力めて得たのでなくして、おのずから附帯して来たのである。これを力めて得ようとすると芸術の堕落が芽をふいて来る。
 僕は朱塗の玉垣を美しむと共に、仁丹の広告電燈にも恍惚とする事がある。これは僕の頭の中に製作熱の沸いている時の事である。製作熱の無い時には今の都会の乱雑さが癇に触ってならないのである。僕の心の中には常にこの両様の虫が喰い込んでいる。これと同じように、僕はいわゆる日本趣味を尊ぶと同時に、非日本趣味にも心を奪われること甚だしい。
 僕は混雑した感想を混雑したままに書いてしまった。僕が見ては下らぬ事に考えられて、世間ではかなりに重大視されているいわゆる地方色の事を一言したかったのに過ぎない。 僕は日本の芸術家が、日本を見ずして自然を見、定理にされた地方色を顧ずして更に計算し直した色調を勝手次第に表現せん事を熱望している。
 どんな気儘をしても、僕等が死ねば、跡に日本人でなければ出来ぬ作品しか残りはしないのである。
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 日本の「印象派宣言」と言われる「緑色の太陽」を抜粋、要約してみた。光太郎は日本的なるものを特別に重視する傾向に異をを唱えている。 生命・人格に絶対のよりどころを求める立場である。
 
 微妙なのは「日本的なるもの」と「主観的な生命の燃焼」と「印象派の色彩論」と「表現主義的な色彩」と・・・あまりかみ合わない論点が平面上にあって、光太郎みずからも「混乱した感想」と言わざるを得ない文になっている。・・・革新的芸術運動の擁護・・・という文なのだろう。
 「蔥」の所で書いた、ロダンの自然重視だけでは満足できない、時代の子としての光太郎の論説が瑞々しい。
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