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瞑想

このブログが「仏教論」ばかりになってしまいました。もういいかげんやめたら・・・そんな気分です。行き詰まってもいます。確かに哲学的に・・つまり概念=言葉としての整合性や現実の反映性を確かめてみる事も重要で・・理性で仏教的世界観とは何かを探求することも無意味ではないでしょう。長く本を読みあさって・・・理解できない事も多いですが全体の地図みたいなものは見えて来ました。しかし、各種の教えの共通項を明らかにしたり、違う言葉で表現された同じ内容・・・ヨーロッパ哲学の唯名論と実在論の論争みたいなものに立ち入らなければならないとしたら、私はあまりに非力です。たとえば「諸法空相」と「諸法実相」をどのように整合的に解説するかみたいな事になってしまうわけです。

前にも書きましたが「煩悩」と「悟り」みたいな定義不能の相互関係のある言葉・・は理屈で考える限り・・くるくる回りながら落下していくしかないように思います。・・でも今なら何かが書けるかもしれない(やってみます)
煩悩という言葉には、最初から「困った事」という否定的価値判断が見られます。ですから、これは「煩悩をなくす」という事が前提になるわけでしょう。そして定義的には煩悩がなくなった状態が「悟り」です。(そして煩悩=無明も悟りも一種の境地てすから定義は出来ないわけです) こういう仮説をたてて見ます。煩悩の否定が悟りではなくて・・煩悩の否定が悟り=菩提だという考えを否定してみる・・・否定の否定が悟りではないか・・・という仮説をです。これには自分が考えなくても親鸞さんが答えを用意しているように思います。煩悩を否定するのは自力聖門という事です。・・これを否定して諸善を行う他力の門があり・・それさえも否定して絶対的な他力の世界に入っていく(たしか三願転入でしたっけ?)・・・これだと三重の否定になってしまいますが。お釈迦さんの煩悩をなくす苦行を否定して、中道のもとに悟りを開いたというのも否定の否定なのでしょう。
親鸞さんの教えでは煩悩は悟りを生み出していく重要な動因となるわけです。釈迦の場合は「この世は苦」と見た段階でもうほとんどは片づいているのだろうと思うのです。この世は苦である・・というのは苦しみを受けいれるという事です。心理学的には「受容」という事になるでしょう。・・・ここまでは数年前も理解していました。でも「諦観=あきらめ」が自分を制約していたように思います。感情が死んでいる・・と言って良いようです。
 
 そうですね・・この間 私がやってきた事は煩悩をむしろプラトン的発想で捉え直すことでした。今TVてやっていたのですが・・・煩悩と言ってしまえばそれは「廃棄物」と言うのと同じですが・・その廃棄物をエネルギー源として使う方法があるという内容でした。同じ事象を煩悩にしてしまうか欲求にするかは使い手の技量によるのでしょう。また、ただ単純に燃やすのか・・そこから新しい価値を生み出すのか・・それも使い手の技量でしょう。 必要な事は正しい方向へ流し込んでいく勇気だけでしょう。・・・日本の仏教が、どのように認知されてきたか不思議に思ってきました。悟りの境地の水準をです・・・軽々しくはいえませんが、比較的多くが書や絵を通してではないのか・・と思うのです。表現という事です。

 ・・・ ・・・ 論理というより 瞑想みたいな文を書きました。何をかいたかも自明ではありませんが、今日はここまでとします。


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