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構図1

  「愛」に限らす、よりよいとされる徳性=価値概念は人類の長い・・たぶん数百万年に渡る狩猟生活の中で形成されてきたものだと私は考えています。それはたぶんDNAに痕跡を残すほどの時間ではなかったかというのが、私の「仮説」です。なぜそう思うかは・・文字になって残った最初期の記録であろうギリシャ神話でも現在も通用する徳性(自己犠牲とか勇気とかの価値)を高く評価する傾向が見受けられるからです。共同体の中での価値評価の残滓は普遍的なものとして・・いつまでも残っています。
 それは、そうした価値意識の社会的根拠が必ずしもないと思われる社会に於いても・・化石のように残存しているように思います。 それは遠い記憶なのだと思います。ですから、所謂、未開と言われる人々の中に「本来の人間性を感じる」という体験談を聞く事は少なくないでしょう。
 また「ボノボ」と言われるチンパンジーの亜種は、性的要素を集団維持機能に組み込んでいると言われていますが・・それは、良く考えてみると人類も同様な社会習慣の中にあるのではないか・・・私にはそう思えるようになって来ています。  (どちらも、長い間ぼんやりと考えてきただけなので例を示して論証することは出来ませんが・・仮説・・としてなりたちうると考えます)

 ここで私は「愛」をアガペーやフィリアなどの類型に分けようとは思いません。そうした規定された事象ではなく・・自分の利害と隣人の利害の共通性と分かち合い・・そうした共同体としての具体的関係性を「愛」と読んでおきたいと思うのです。しかし、そのような「共同性」はあくまで小さな「利益共同体内部の価値」から出るものではなく、別の利害共同体との間では成り立たない関係性なのでしょう。・・・そうした人類の「愛のDNA」は そのレベル(身内レベル)から進化しないで発達を止めてしまった・・・つまり「本能としての愛」は不十分のまま・・というのが私の「直感=推量」なのです。そうした事実関係をキリスト教では「本来の愛は、神にしかあり得ない」と表現したのだろうと思います。

 この単純な 議論の組み立ての中でも「愛の両義性」が顔を出しているのに考えてる私自身が驚いています。「内向きには愛であるものが、外的には恐怖である」という形でです。

 *ラフスケッチ  この論はまず 「愛の両義性・矛盾性」を前提として、仏教の論立てを考えてみたいという事です。その根底に人間の共同性があり、愛はその共同性に伴う感情だと押さえたいと思っています。少々アフォーダンスの考え方に似ているかも知れません。 その上で、肯定面を至上のものに格上げしたのがプラトンやキリストであり、否定面を前面に出したのが釈迦ではないのか・・と考えています。 両義性とは・・価値感情としての「愛」と価値実態としての「共同体の良好さ」の関係の中にあり、「愛」とは抽象的なものではない・・・と論を進めたいと思っているのです。 仏教の論立てが 一種循環論理になるのもそこに原因があるのではないか・・と私は思うのです。たとえば「無我」と自分自身を否定して見せていながら、最後は「自分を灯明とせよ」と 結論は反対になる。 また「愛欲は煩悩だ」としながら、最高の価値として「慈悲」を説く・・・この、矛盾というか・・らせん的発展と言うか・・・弁証法的論理というか・・・そうしたものの基底の「人間の共同性」というものがあるのだろうと考えています。
 そして、さらに問題を複雑にしているのは「想像力」と「実態・実体・リアル」の関係性の問題で、・・・私にはこの「想像力」の問題も人間という存在にとっては かなり重たい「現実」ではないか・・・そのように思えるのです。
 この構図の構図みたいな思いつきが・・この間の私の混乱を解決するのではないか・・と思っているのです・




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