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構図3

 小泉吉宏さんのシッタカブッタの2011年版 「ぶたのみどころ」という本を手に入れたのですが、・・・私がやってるように、生物の進化の過程で、自他の区別が生まれたり・・・物に対するフェティシュな関係(とは書いてないのですが)物は心だというつかまえ方など・・そして量子力学(粒子と波の矛盾)まで取り上げていて・・・科学的知見と仏教的認識を追いかけているらしいのがわかります。

 私のこの「構図」は 仏教の「存在論」が 時代によって大きく違っている・・というところから始まっています。最初は般若心経の「空概念」は・・エルンスト・マッハみたいたなと思ったのです。色即是空の「色」は・・人間の感性が把握した範囲の感性の集合体のように理解できました。たぶん中村元博士の理解のしかたのようです。 物自体や意識から独立した物 という考え方は仏教にない・・少なくても般若仏教=初期大乗仏教の時代にはないだろうと考えていたのです。
 しかし別の説では、般若心経は密教の教典で・・・その証拠に・・ダラニ=真言があるではないかというのです。ここまでくると仏教を合理的に理解することなどできはしないように思ってしまいました。

 この「構図・論」ですが・・直感から始まっていて、今は思いついた理屈をつけているんですが・・・仏教には存在論がないのだろうと思います。(世界観ではありません。金輪際から諸天までのの神話はあるのですから) 存在論は語るな・・・というのが釈迦の論法だったのでしょう。「大事なのは毒矢を抜くこと」 それに対してキリスト教は 全知全能の神の概念カラ・・・神のなさった行為?・・法則を合理的に明らかにするという動きが生まれて・・・科学的アプローチが見いだされた・・とも考えられます。

 この仏教に存在論がないという事が、仏教をヌエのような存在にし、現在に通用しないものにしているように思ったのはもう20年も前の事でした。親鸞さんに救われたと思いながら・・・親鸞さんは現実にどうすべきか・・・という指針を示してないのです。あの信長と対立した本願寺教団はどのような論理を持って戦い殺されていったのか・・・これが見えないのです。たぶん、長島で、加賀で、越前で惨殺された事によって、当時の本願寺教団の記憶は失われてしまったのでしょう。 反乱と挫折・・の記憶・・・現在の本願寺教団の貴種信仰・・・西本願寺の天皇との密接さは残された建物に見られます。

 この「構図」は 存在論を位置づけなおした上で ・・ 「心理的アプローチ」である仏教を考え直してみる必要があるのではないか ・・・ たぶん私は 無意識でそんな事を発想した のかも知れません。


構図2

構図・・・で私が発想している事は、コンピューターのOS と アプリの関係のように 「素の人間性」 と 「その上の思想」 そういう関係性の上に 現在の人間がある・・・という事です。 「広い意味での本能」 と 「物の見方考え方」 と言い換えてもいいかも知れません。

  ・・・なぜ こんな発想をしているのか どこから思いついたのか  ・・・ 自分でも良くわからないでいますが・・・

 まず 思っているのは 「人間は 矛盾的存在だ」 と言うことです。 「個人的利害」と「共同的利害」この矛盾的価値概念を共に担うようにプログラムされているように感じます。人間がポリス的動物だと言われるように・・共同性・集団性を欠いた人間は人間ではあり得ないでしょう。 しかし、現代は「人間は他者に対して狼だ」とする方が常識なのでしょうが・・・・。もっと古典的矛盾は
キリスト教の「原罪」が示すように「知的になってしまったが故の矛盾」です。この知性・想像力が暴走して悪さをする・・・信じられないような独裁者にもなるわけです。

 そんなふうに 人間は素では矛盾的にプログラムされているのではないでしょうか。 それは開かれたシステムで、その時、その時個別に考えていく事を要求するシステムのように思います。 そこには一般論としての解決方法はない・・・のでしょう。


 *メモ  人の恐怖心というのは 多くの場合 想像力によっています。私の場合 一番恐ろしかったのは「妻の死」でした。「死ぬと告知された」と言う事でした。 「限られた命の時間」 とか「何のための生なのか」とか 答えられない問題が意識されていました。 仏教で「生死は一大事」と言われたり、「メメントモリ」でしたか?死を思え・・とか言われますが、私には宗教業者の宣伝文句にしか思えません。「死は実体ではない」と言うのが正しいと思います。実際に死が近づくというのは、生きにくくなる過程です。死が近づくとは、生が悪条件の中で頑張ることです。その過程で死はあり得ません。・・?
 
 *釈迦が「人生は苦」と言ったように、人間は苦しむように出来ているのでしょう。知性と想像力を手に入れてしまった人間の宿命でしょう。お気楽に核エネルギーから楽だけを引きだそうとする「怠け者」にエネルギー管理を任せてはならないように・・・。

 *ここ数日 心に引っかかっているのが「人間の虚栄心」です。・・・様々な局面で 「同床異夢」を見ることが多くなっています。行動を共にしながら別の物語を生きている。 やはり「社会主義」が死んだことが、大きな物語を困難にしている・・進歩や発展に方向性が見えなくなっているためかも知れません。昔だったら、「所詮大衆は」とか「思想性がない」と切って捨てればよかったのですが・・・今はそうした特権的立場にだれも立てないからでしょう。・・・・・それでも、自分の華やかだった事を語り、今を受け入れないことを恥ずかしいと思わない・・・まるでゴーリキーの「どん底」みたいな話を聞かされた・・・恥を恥と感じない人間が増えている・・・これも衰退期の特徴なのでしょうか?


 

構図1

  「愛」に限らす、よりよいとされる徳性=価値概念は人類の長い・・たぶん数百万年に渡る狩猟生活の中で形成されてきたものだと私は考えています。それはたぶんDNAに痕跡を残すほどの時間ではなかったかというのが、私の「仮説」です。なぜそう思うかは・・文字になって残った最初期の記録であろうギリシャ神話でも現在も通用する徳性(自己犠牲とか勇気とかの価値)を高く評価する傾向が見受けられるからです。共同体の中での価値評価の残滓は普遍的なものとして・・いつまでも残っています。
 それは、そうした価値意識の社会的根拠が必ずしもないと思われる社会に於いても・・化石のように残存しているように思います。 それは遠い記憶なのだと思います。ですから、所謂、未開と言われる人々の中に「本来の人間性を感じる」という体験談を聞く事は少なくないでしょう。
 また「ボノボ」と言われるチンパンジーの亜種は、性的要素を集団維持機能に組み込んでいると言われていますが・・それは、良く考えてみると人類も同様な社会習慣の中にあるのではないか・・・私にはそう思えるようになって来ています。  (どちらも、長い間ぼんやりと考えてきただけなので例を示して論証することは出来ませんが・・仮説・・としてなりたちうると考えます)

 ここで私は「愛」をアガペーやフィリアなどの類型に分けようとは思いません。そうした規定された事象ではなく・・自分の利害と隣人の利害の共通性と分かち合い・・そうした共同体としての具体的関係性を「愛」と読んでおきたいと思うのです。しかし、そのような「共同性」はあくまで小さな「利益共同体内部の価値」から出るものではなく、別の利害共同体との間では成り立たない関係性なのでしょう。・・・そうした人類の「愛のDNA」は そのレベル(身内レベル)から進化しないで発達を止めてしまった・・・つまり「本能としての愛」は不十分のまま・・というのが私の「直感=推量」なのです。そうした事実関係をキリスト教では「本来の愛は、神にしかあり得ない」と表現したのだろうと思います。

 この単純な 議論の組み立ての中でも「愛の両義性」が顔を出しているのに考えてる私自身が驚いています。「内向きには愛であるものが、外的には恐怖である」という形でです。

 *ラフスケッチ  この論はまず 「愛の両義性・矛盾性」を前提として、仏教の論立てを考えてみたいという事です。その根底に人間の共同性があり、愛はその共同性に伴う感情だと押さえたいと思っています。少々アフォーダンスの考え方に似ているかも知れません。 その上で、肯定面を至上のものに格上げしたのがプラトンやキリストであり、否定面を前面に出したのが釈迦ではないのか・・と考えています。 両義性とは・・価値感情としての「愛」と価値実態としての「共同体の良好さ」の関係の中にあり、「愛」とは抽象的なものではない・・・と論を進めたいと思っているのです。 仏教の論立てが 一種循環論理になるのもそこに原因があるのではないか・・と私は思うのです。たとえば「無我」と自分自身を否定して見せていながら、最後は「自分を灯明とせよ」と 結論は反対になる。 また「愛欲は煩悩だ」としながら、最高の価値として「慈悲」を説く・・・この、矛盾というか・・らせん的発展と言うか・・・弁証法的論理というか・・・そうしたものの基底の「人間の共同性」というものがあるのだろうと考えています。
 そして、さらに問題を複雑にしているのは「想像力」と「実態・実体・リアル」の関係性の問題で、・・・私にはこの「想像力」の問題も人間という存在にとっては かなり重たい「現実」ではないか・・・そのように思えるのです。
 この構図の構図みたいな思いつきが・・この間の私の混乱を解決するのではないか・・と思っているのです・




構図(?)

「愛」という概念は 仏教とは相性が悪いです。 しかし、今の日本人にとって「愛を価値基準としての判断」は常識的な思考習慣でしょう。(死んだら浄土に行くのではなく、天国に行くように・・・そして、ディズニーが手放しで夢の国であるように)

 価値へのとらわれ(執着)は、それが愛であれ美であれ・・執着であるが故に無明であり煩悩である・・・というのが釈迦から始まる仏教の教えなのでしょう。この間 仏教の考え方を初期仏教(南方仏教)から北伝仏教の様々な展開や、現代化された様々な仏教論を見てきましたが・・・・色即是空の「空」の考え方にしても、否定として考える傾向から、絶対的実在としてつかまえる考え方まであって・・・何とでも解釈出来てしまう仏教論に出会ってしまって・・・私の思索は止まってしまいました。 そうなって見ると様々な新興宗教・・それの多くは折衷主義でしょうが・・・の教義もわかる気がします。

 「愛」から書いてみたのは・・こうした事に関する自分なりの「構図」が提起できるのではないかと思っているのですが、できの悪い新興宗教を提示する事になるのではと思って・・・今躊躇しています。


 雑感:今、職場で退職の送別の時期です。同じ経験、同じ時間を過ごしているのに・・人は同じものを見ていない・・見ているものが違うという事にあらためて驚いています。・・・その分岐の理由は・・・思索の筋道ではなく・・・価値基準の違いが圧倒的なのだなと改めて感じています。「生活が意識を規定する」「人間は、まず社会構造に中に投げ出される」のでしょう。そうした中で形成された自分の価値観を疑う事は・・ほとんどされないものみたいです。
 

贈る言葉?

大きな物語を・・信じられない時代になったという事が私にこのブログを書かせている動機です。(略)。

 ただ、「目標・・実践・・総括」こうした、実践的理性が・・現実に近づいて行くという事は信じていたように思います。その事は今でも違っていないと思うのですが、残念ながら自分自身も含めて、社会はあまり「学ばない」ようです。たぶん人間の歴史はそうした愚かしさを常に繰り返しているように感じます。人間は「唯我独尊」でこの世に誕生して・・その自己中が間違っていたと知ってって死んでいく・・という歴史を繰り返して生きて行ってるに過ぎないのではないかそんな気がします。

 人間はその数百万年の長い狩猟生活の中で「共同性」という倫理観を培ったのでしょう。それは「人類の記憶」のように底流として流れていてそれが「コンミューン」という考え方として存在し、また利害打算ではない社会関係も局所的には存在し続けてるいるが故に出口を求めるように思います。

 一方で「共同」より「個人」という考え方も・・・たぶん共同体の中で徐々に育ち・・・農耕に伴う蓄積の中で・・それなりの「生産性」を生み出してきたのでしょう。

 ・・・あまりの平凡な文章で・・・自分でもあきれています。こんな大上段に振りかぶっても得るところはないでしょうに・・・

それでも書いてるのは「社会」にも「個人」にもそうした矛盾する側面が・・・常につきまとっているように思うからです。
それは、高校生を見る場合も、仏教を見る場合も同じように生まれる「矛盾」であるように思います。長く仏教を考えてきましたが・・・「世のため人のため」として始まったはずの「大乗仏教」が現実には、職業集団となりはて、「自分一人の救済」を求めている「小乗仏教」の方に「共同性」が生きている・・こうしたパラドックスが社会の「素粒子=原子」のように実在しているように思うからです。

 そうですね・・・理論を述べているのではないです。 最後の卒業生を送り出すにあたって「共同」と「個人」のモメントが、時間的に波のように・・否定と肯定を繰り返しているように思えるからです。教育理論が意図するように・・人間は積み上げ型で育ってなんかいかない。共同性の実感と感激の中に個人主義が育ち、個人主義の徹底の中に共同性が育っている、そうした視点を持ちえなかった自分を少し責めてもいます。

 個人主義の中に愛があり、共同性の中に怠惰がある・・なんて事は少なくないでしょう。

弱点をもちながらも「楽しい三年間を過ごしました」・・贈る言葉なんか書くつもりなかったのに・・・へんな文章になってしまったようです。ともかくいろんな場面で「叱かりながら愛している」という奇妙な感情を経験させてもらったと思います。


メモ

 仏教と脳科学を今追いかけています。・・・その感想ですが「唯物論」の方向へ仏教の論考も進んでいるように感じています。現代人に説得的にものを言うと、結局、科学的にしか言えない。しかも脳科学とはどちらかと言うと「機械的唯物論」の系譜に属するのではないでしょうか。批判しているのではありません。「機械的に考える」という事が重要な方法である研究段階もあるからでしょう。・・コンピューターと同じように、電気信号と回路のつながりが思考を生む・OSに似た働きも個別プログラムに似た働きも脳にはあり・・・もうしかしたら、自立的思考を機械に持たせる事が出来るかもしれない。これが幻想なのか、未来に実現することなのか私には判断が出来ません。精神作用が物質の上に成り立ってるるとすると「観念論」が生き残る余地はどこかにあるのでしょうか。
 仏教でも「心頭滅却すれば火もまた涼し」と言った精神論を説く傾向は見かけることが少なくなっています。「熱いものは熱い」ですから。

>人間がエネルギー体としての存在を本質とするということは、肉体の存在に依存するものではないということです。すなわち、肉体の死は存在の終末ではなく、存在状態の変化にすぎません。

 神秘主義サイトからの引用です。カントから・・シュタイナーまで引用していながら、一番重要な論点が上のようになります。
エネルギーは物質そのものです。たしかにエネルギー保存の法則は科学ですが・・肉体の死の先があるという証明にはならないと思います。昔、霊の存在を証明するのに、死んだら軽くなる・・だから霊はある。というのがありましたが、それじゃあ霊とは質量のある物質ということになってしまいます。上の証明にもそうした理不尽さを感じています。

 * 表象的世界・イメージの世界・昆虫的関係性の世界・・・そうした知性とは言えない「心的世界」があるといのが、この間のこのブログの趣旨ですが、その事が霊の世界を証明する事にはならないと私は考えています。親鸞さんの阿弥陀仏にしても「実在」しているものでも「心に存在する」ものでもなく、一つの仮設のイメージとして有効だと考えているのです。(心の機能として意味がある)・・・仏教にはこうした理解を許す余裕があるようです。

 * ですからキリスト教のように、神が実在する・・と言い切ってしまうと理論的整合性をどうつけるか・・疑問があります。
ただ、文化・思想としてのキリスト教は素晴らしいと思いますが・・・。

 私にとって、一番抵抗があるのが「原罪」という考え方です。仏教の場合「この世は苦だ」と受けいれた時は、もう救いに近づいているのに・・・「原罪」を受け入れても、それは神に服従することでしかないように思われます。そういう形での自己放擲にどのような意味があるのか・・と考えてしまいます。「悔い改めなさい・・神の国は近づいてる」と言われても、なんでよそ者にそこまで言われなければならないのか・・・と思うのです。

 雑ぱくな、考えとも思えない・・思考ですから メモとしました。 このメモからなにかが始まるかは見えていません。


びっくり

 びっくり・・・です。 FC2の訪問者リストの「山中芸大4年生」さん。 森田先生がご退職・・と書いてあって、まさかと思って検索したら山中芸大芸術学には森田って二人いて・・当然、この森田さんは義之さんの方なんですね。・・・ まさか森田氏がこのブログの存在を知らない事を希望します。 以前、書いた事ありましたし・・・その上、旧姓の「野田さん」まで教授ですか。
 
 いや、ついなつかしくて書いてしまいました。 (書きませんが・・・いろいろ思い出します。) 

 まっ、素人談義をぼつぼつとやるのが、このブログの趣旨で「プロ」に何か言われても受け答えする力はありません。だから自分のペースをくずさずに行きたいです。ある意味の「自己洗脳」のためのブログですから・・・つまり、世の中の論調と自分の関心が離れすぎていて、なおかつ議論する相手もいないですから・・・自分の理論は自分で作る。そうした事をやっています。

 実名・・が出てくるとこれだけ取り乱してしまう。 やっぱりフェイスブックを検討しているのですが無理みたいです。 匿名で・・・自分の考えを書き続ける。これが一番でしょう。

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