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メモ

高村光太郎  吉本隆明  西洋文明  庶民性 叙情 感性 神国日本・・・・「吉本隆明1968」という本を読んだ・・本の山に埋もれていたのだが・・・著者の鹿島茂さんがどんな人かは知らない。 社会階層論的評論?らしい。

私は「高村光太郎論」を伊藤信吉の本で読んだ。ヒューマニストであった光太郎が、戦争協力に突き進んだ原因を、思想的な理由と智恵子の死によるエアーポケット状態に求める文だったと記憶している(今は絶版か?) 吉本の光太郎論は本はあるがまだ読んでいない。・・・とりあえず鹿島本の感想。 吉本の「庶民に居直る」的発想が・・庶民である私にはわからない。居直るような庶民を私は知らない。 ・・・  ・・ 吉本隆明ははたして「庶民なのか」という思いがある。現実に事業者の家庭だという・・・村の地主層・町の企業者・・・には一種特別な文化があり、地域社会や町を束ねるという役割を果たしていて・・その力は侮れない。・・・吉本の言う庶民とは、身体だけが資本の庶民とは違ってないのか・・と思う。

内田樹さんが日本は結局「尊皇攘夷」と書いてるらしい事を読んだ。天皇制のもとで個人の利害を認めてもらう・・そして攘夷=ナショナリズムで一体感を味わおうとする。 情緒に流される傾向は・・常につきまとってるのかも知れない。

 * 「同床異夢」という言葉が 私につきまとってる。 その正体が見えない。 以上 メモ 
 * いくつか本をあたってみた。・・イヤ感・・カオス・それぞれ・思いこみ・・・? 


セザンヌ  パリとプロバンス(1) 

乃木坂の新美術館のセザンヌ展を見ました。 一番感動したのは家から出てきたセザンヌを撮った大きな写真でした。 その写真は言われている偏屈な画家というより、恥じらいながらカメラに収まってる老人といったもので・・・この老人を馬鹿にして子供達が石を投げたのかと思うと感じるものがありました。同時に会場にアトリエが復元され あの壺やあのビンやあの石膏像と対面できた事・・驚きでした。

 こんどの展覧会はこれまで日本で行われたセザンヌ展のなかで最良のものだったように思います。正直、期待どころかやってるということすら知らないで、行ったついでに見たのです。

 一言で言うと 「セザンヌは音楽家のように絵を書いている」というのが感想です。 作曲家であり指揮者であり演奏家である・・・それを一人でやりきってる・・・。(なんの文献の裏付けもない感想ですが・・描ききれない音楽が画面の背景でなっているような気がしました)

 横浜展の時は 日本のセザンヌの影響を受けた画家達と 併置されていて見ている私も「リアリズム」に関心が行っていました。セザンヌ様式・・をどう消化吸収したのか・・を考えていました。 私としてはマチスとの関係で「水浴図」を見直したのが成果でしたが・・・理屈の上では・・・セザンヌの様式を折衷的に取り入れている日本の画家達・・・つまり日本ではアカデミズムになってしまったセザンヌばかりが見えていました。今回の展覧会は、そうしたモネもセザンヌも一緒くたに入ってきた日本の事情ではなく・・ヨーロッパアカデミズムを消化しようとしている初期セザンヌと、ヨーロッパ文化の中で作品を育てて行った晩期セザンヌまでの歩みが感じられる展覧会だったように思います。

感情的言葉は書きたくはないのですが・・・「セザンヌ」に心が震えました。孤独だったろうなと思います。・・・今見ても「古くない」・・・前衛的という意味でです・・・

形(空間)と色・・・それが画家に与える感覚(サンサンション)だけを頼りに一生を費やす・・・そんな事が可能なんだろうか・・・
今 俗情となれ合って生きるしかない状況なればこそ ・・・ 言葉がありません。 熱心なカソリックだったと言います。

セザンヌの絵は 彼なりの信仰告白 だったような気がしてなりません。

          3月28日から6月11日まで 国立新美術館


構図3

 小泉吉宏さんのシッタカブッタの2011年版 「ぶたのみどころ」という本を手に入れたのですが、・・・私がやってるように、生物の進化の過程で、自他の区別が生まれたり・・・物に対するフェティシュな関係(とは書いてないのですが)物は心だというつかまえ方など・・そして量子力学(粒子と波の矛盾)まで取り上げていて・・・科学的知見と仏教的認識を追いかけているらしいのがわかります。

 私のこの「構図」は 仏教の「存在論」が 時代によって大きく違っている・・というところから始まっています。最初は般若心経の「空概念」は・・エルンスト・マッハみたいたなと思ったのです。色即是空の「色」は・・人間の感性が把握した範囲の感性の集合体のように理解できました。たぶん中村元博士の理解のしかたのようです。 物自体や意識から独立した物 という考え方は仏教にない・・少なくても般若仏教=初期大乗仏教の時代にはないだろうと考えていたのです。
 しかし別の説では、般若心経は密教の教典で・・・その証拠に・・ダラニ=真言があるではないかというのです。ここまでくると仏教を合理的に理解することなどできはしないように思ってしまいました。

 この「構図・論」ですが・・直感から始まっていて、今は思いついた理屈をつけているんですが・・・仏教には存在論がないのだろうと思います。(世界観ではありません。金輪際から諸天までのの神話はあるのですから) 存在論は語るな・・・というのが釈迦の論法だったのでしょう。「大事なのは毒矢を抜くこと」 それに対してキリスト教は 全知全能の神の概念カラ・・・神のなさった行為?・・法則を合理的に明らかにするという動きが生まれて・・・科学的アプローチが見いだされた・・とも考えられます。

 この仏教に存在論がないという事が、仏教をヌエのような存在にし、現在に通用しないものにしているように思ったのはもう20年も前の事でした。親鸞さんに救われたと思いながら・・・親鸞さんは現実にどうすべきか・・・という指針を示してないのです。あの信長と対立した本願寺教団はどのような論理を持って戦い殺されていったのか・・・これが見えないのです。たぶん、長島で、加賀で、越前で惨殺された事によって、当時の本願寺教団の記憶は失われてしまったのでしょう。 反乱と挫折・・の記憶・・・現在の本願寺教団の貴種信仰・・・西本願寺の天皇との密接さは残された建物に見られます。

 この「構図」は 存在論を位置づけなおした上で ・・ 「心理的アプローチ」である仏教を考え直してみる必要があるのではないか ・・・ たぶん私は 無意識でそんな事を発想した のかも知れません。


構図2

構図・・・で私が発想している事は、コンピューターのOS と アプリの関係のように 「素の人間性」 と 「その上の思想」 そういう関係性の上に 現在の人間がある・・・という事です。 「広い意味での本能」 と 「物の見方考え方」 と言い換えてもいいかも知れません。

  ・・・なぜ こんな発想をしているのか どこから思いついたのか  ・・・ 自分でも良くわからないでいますが・・・

 まず 思っているのは 「人間は 矛盾的存在だ」 と言うことです。 「個人的利害」と「共同的利害」この矛盾的価値概念を共に担うようにプログラムされているように感じます。人間がポリス的動物だと言われるように・・共同性・集団性を欠いた人間は人間ではあり得ないでしょう。 しかし、現代は「人間は他者に対して狼だ」とする方が常識なのでしょうが・・・・。もっと古典的矛盾は
キリスト教の「原罪」が示すように「知的になってしまったが故の矛盾」です。この知性・想像力が暴走して悪さをする・・・信じられないような独裁者にもなるわけです。

 そんなふうに 人間は素では矛盾的にプログラムされているのではないでしょうか。 それは開かれたシステムで、その時、その時個別に考えていく事を要求するシステムのように思います。 そこには一般論としての解決方法はない・・・のでしょう。


 *メモ  人の恐怖心というのは 多くの場合 想像力によっています。私の場合 一番恐ろしかったのは「妻の死」でした。「死ぬと告知された」と言う事でした。 「限られた命の時間」 とか「何のための生なのか」とか 答えられない問題が意識されていました。 仏教で「生死は一大事」と言われたり、「メメントモリ」でしたか?死を思え・・とか言われますが、私には宗教業者の宣伝文句にしか思えません。「死は実体ではない」と言うのが正しいと思います。実際に死が近づくというのは、生きにくくなる過程です。死が近づくとは、生が悪条件の中で頑張ることです。その過程で死はあり得ません。・・?
 
 *釈迦が「人生は苦」と言ったように、人間は苦しむように出来ているのでしょう。知性と想像力を手に入れてしまった人間の宿命でしょう。お気楽に核エネルギーから楽だけを引きだそうとする「怠け者」にエネルギー管理を任せてはならないように・・・。

 *ここ数日 心に引っかかっているのが「人間の虚栄心」です。・・・様々な局面で 「同床異夢」を見ることが多くなっています。行動を共にしながら別の物語を生きている。 やはり「社会主義」が死んだことが、大きな物語を困難にしている・・進歩や発展に方向性が見えなくなっているためかも知れません。昔だったら、「所詮大衆は」とか「思想性がない」と切って捨てればよかったのですが・・・今はそうした特権的立場にだれも立てないからでしょう。・・・・・それでも、自分の華やかだった事を語り、今を受け入れないことを恥ずかしいと思わない・・・まるでゴーリキーの「どん底」みたいな話を聞かされた・・・恥を恥と感じない人間が増えている・・・これも衰退期の特徴なのでしょうか?


 

構図1

  「愛」に限らす、よりよいとされる徳性=価値概念は人類の長い・・たぶん数百万年に渡る狩猟生活の中で形成されてきたものだと私は考えています。それはたぶんDNAに痕跡を残すほどの時間ではなかったかというのが、私の「仮説」です。なぜそう思うかは・・文字になって残った最初期の記録であろうギリシャ神話でも現在も通用する徳性(自己犠牲とか勇気とかの価値)を高く評価する傾向が見受けられるからです。共同体の中での価値評価の残滓は普遍的なものとして・・いつまでも残っています。
 それは、そうした価値意識の社会的根拠が必ずしもないと思われる社会に於いても・・化石のように残存しているように思います。 それは遠い記憶なのだと思います。ですから、所謂、未開と言われる人々の中に「本来の人間性を感じる」という体験談を聞く事は少なくないでしょう。
 また「ボノボ」と言われるチンパンジーの亜種は、性的要素を集団維持機能に組み込んでいると言われていますが・・それは、良く考えてみると人類も同様な社会習慣の中にあるのではないか・・・私にはそう思えるようになって来ています。  (どちらも、長い間ぼんやりと考えてきただけなので例を示して論証することは出来ませんが・・仮説・・としてなりたちうると考えます)

 ここで私は「愛」をアガペーやフィリアなどの類型に分けようとは思いません。そうした規定された事象ではなく・・自分の利害と隣人の利害の共通性と分かち合い・・そうした共同体としての具体的関係性を「愛」と読んでおきたいと思うのです。しかし、そのような「共同性」はあくまで小さな「利益共同体内部の価値」から出るものではなく、別の利害共同体との間では成り立たない関係性なのでしょう。・・・そうした人類の「愛のDNA」は そのレベル(身内レベル)から進化しないで発達を止めてしまった・・・つまり「本能としての愛」は不十分のまま・・というのが私の「直感=推量」なのです。そうした事実関係をキリスト教では「本来の愛は、神にしかあり得ない」と表現したのだろうと思います。

 この単純な 議論の組み立ての中でも「愛の両義性」が顔を出しているのに考えてる私自身が驚いています。「内向きには愛であるものが、外的には恐怖である」という形でです。

 *ラフスケッチ  この論はまず 「愛の両義性・矛盾性」を前提として、仏教の論立てを考えてみたいという事です。その根底に人間の共同性があり、愛はその共同性に伴う感情だと押さえたいと思っています。少々アフォーダンスの考え方に似ているかも知れません。 その上で、肯定面を至上のものに格上げしたのがプラトンやキリストであり、否定面を前面に出したのが釈迦ではないのか・・と考えています。 両義性とは・・価値感情としての「愛」と価値実態としての「共同体の良好さ」の関係の中にあり、「愛」とは抽象的なものではない・・・と論を進めたいと思っているのです。 仏教の論立てが 一種循環論理になるのもそこに原因があるのではないか・・と私は思うのです。たとえば「無我」と自分自身を否定して見せていながら、最後は「自分を灯明とせよ」と 結論は反対になる。 また「愛欲は煩悩だ」としながら、最高の価値として「慈悲」を説く・・・この、矛盾というか・・らせん的発展と言うか・・・弁証法的論理というか・・・そうしたものの基底の「人間の共同性」というものがあるのだろうと考えています。
 そして、さらに問題を複雑にしているのは「想像力」と「実態・実体・リアル」の関係性の問題で、・・・私にはこの「想像力」の問題も人間という存在にとっては かなり重たい「現実」ではないか・・・そのように思えるのです。
 この構図の構図みたいな思いつきが・・この間の私の混乱を解決するのではないか・・と思っているのです・




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